株式会社モビーディック 代表取締役社長 保田守ブログ

(株)モビーディック代表として、企業理念や物づくりに対する情熱など、ブログ形式でお届けします。

東日本大震災No.7

そして、たくさんの社員の生活を預かる身としてはいつまでも嘆いている場合ではありませんでした。電気、水道、電話などのインフラが復旧にともなって会社での避難所生活は3週間ほどでやめ、それぞれが公的な避難所や仮説住宅などに移り住み、4月1日にはいち早く操業を再開したのでした。どこよりも早く復興の一番乗りを目指すつもりでした。震災の前にいただいていた注文の納品もいつまでも遅らせるわけにはいかないとの思いがあり、お待ちいただいているお客様に一日も早く商品をお届けしなければと、出社できる社員だけで少しずつウエットスーツを作りはじめました。とは言えガソリンの供給が途絶えたままの状態だったので社員の皆は徒歩や自転車での出勤でした。自宅の整理やら身の回りのことに忙しい中で献身的に出社してくれた社員には本当に頭の下がる思いでした。

会社の経営をしてきてあの震災の時が最大の危機でたったことは言うまでもありません。

地元の多くの工場は被災してやむを得ず全社員を解雇する企業が多くありました。結果として、被災者の多くは住居を失い、かつ仕事も失うという苦難に陥ったため、幸いにして工場だけでも残った当社としては雇用を守り事業を継続することで地元の復興に資することが義務でありました。

当社の取り組みとして、まず被災して職場を失った当社の協力工場の社員の方々に仕事をしていただくために当社の工場に来ていただき一緒に仕事をしてもらいました。また仮説住宅で避難生活をされている皆さんに内職仕事を提供するために、これまで廃棄していたウエットスーツの端切れを利用してアクセサリーを作りました。また津波で多くの方が亡くなられたことから、水中で浮力体にもなり保温効果もあるウエットスーツ素材でクルマのシートカバーを商品化しました。

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東日本大震災No.6

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会社が被災しただけではなく海岸線の破壊や原発損壊による放射能汚染が広がる中で国内のウエットスーツ需要は激減することが予想され事業の存続を真剣に考えざるを得ない危機的状況にありましたが、暖かいご支援により沢山のご注文を頂戴しその量はむしろ前年実績を上回るほどのもので生産能力がダウンした中で作りきれないほどでした。そのことによって会社の復興、地元の復興に希望を持つことが出来たのです。困った時はお互い様とは言うものの、実際にいざとなれば中々出来ることではないと思いますが、あの困難の中で受けた、たくさんの親切には感謝しても感謝しきれるものではありませんでした。

震災を経験して改めて「本当に大事なものは何か」を知りました。

それは、「家族」、「健康」、「希望」です。

家族の無事が何よりで、健康な身体があれば何とかなる、そして絶望と閉塞間の中で希望を持つことがとても大事だと思いました。そして、お金で買えるものなどには本当の価値は無いと思いました。

そして沢山の方々の善意に触れ理想の社会の形と言うものが垣間見えたように思いました。それは、「思いやりの連鎖」です。無償の思いやりが次の思いやりを生み、またそれが次の思いやりを生む、そんな理想の社会を垣間見た思いがあります。

東日本大震災No.5

ここの損害だけで数億円に及びしかも損害保険は地震特約に入っていなかったため一時は呆然とするしかありませんでした。さらに私自身の住まいも全壊してしまいました。水没だけならまだ良かったのですが、近所から流されてきた家屋がたくさん我が家に衝突して無残な状態になり持ち出せたのは先祖の位牌ひとつでした。当時のあいさつはまず「生きていたか~」と言ったものでした。それでも本社社屋が無事だっただけでも私たちは恵まれていたと思いました。

 家を失った社員が30人ほど会社で避難生活をしました。寒さ対策として床にウエットスーツ素材のネオプレンシートを敷きました。水や食料の調達にも苦労しましたが、被害が少なかった社員や友人、知人達が色々と持ち寄ってくれたので大変助かりました。また取引先様からの物心両面に亘るご支援は国内の取引先様だけでなく台湾や欧州の企業様からも頂戴したことは望外の感謝でした。そして何よりありがたかったことはお得意先や個人のお客様からの支援でした。

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東日本大震災No.4

石巻市内の中心部はほぼ全域が津波のために水没しましたが、本社は海岸から7-8km内陸側にあったため辛うじて水没は免れました。私の自宅は北上川の河口付近にあり近づくことすら出来なかったので、同じように家に帰れない社員達と工場にその晩は泊まることになりました。非常に寒い晩でしたので毛布も無い状態では眠れず、結局自動車の中でヒーターをつけながら休んだのでした。

 当時の本社勤務の社員数はパートさんを含め72名、関連会社に27名、合計99人。翌日から全員の安否確認を開始したのですが、ケータイもつながらず、道路も水没しているためになかなか確認できずに苦労しました。後に判明した被災状況は、関連会社の社員1名、本社社員の家族、親族の方々が数人お亡くなりになりました。また自宅の全壊が17名、半壊が14名と被害は甚大なものでした。本社工場とは別の場所に製品倉庫と関連会社が入っていた工場がありましたが水没と地盤沈下で全壊してしまいました。

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東日本大震災 No.3

高層ビルが余震で大きく揺れていて倒れてくるのではないか、また通行止めになっている首都高が崩れて押しつぶされるのではないかなどと恐怖と戦いながらノロノロ運転で4時間ほどかかって都内を抜け東北に向かいました。その後も道路の損壊がひどいため道なき道を迂回しながら結局23時間もかかりました。ガス欠を心配しましたが借りた車がたまたまプリウスであったために非常に燃費がよく、またカーナビもついていたので迂回路も見つけやすかったのは幸いでした。カーラジオからはその後の津波や火災の発生などの情報があり、運転中もとても気が気ではありませんでした。建物や道路の損壊と火災を横目で見ながら翌日の午後にやっと会社に着いて皆の無事な顔を見たときは本当にうれしかったです。

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東日本大震災 No.2

地震発生時、私は当時「日本スクーバ協会」の会長職にあり会議のために東京の墨田区にいました。激しい揺れでこれは関東大震災の再来かと思ったほどです。ところがテレビで震源地は何と宮城県沖と言うではありませんか。家族や社員のことを思うと直ぐに帰らねばと居ても立ってもいられなくなり、表に飛び出して通りかかったタクシーに飛び乗りました。新幹線も止まっているだろうと思いつつも、とりあえず上野駅まで行きましたが案の定、電車はすべて止まっており、駅は大混乱でした。ケータイ電話がつながらず焦っていたら多くの人が並んでいる公衆電話を見つけました。やっと順番が来て会社にいた家族と連絡がとれ皆の無事を確認しました。一安心しましたが余震が激しく続くのでどうしようと思案していた時にふとレンタカー会社の看板が目に付きました。これだと思い駆けつけたところ、ここもやはり行列で多くの人が並んでいましたが幸いにも最後の一台を借りる事が出来て東京からの脱出を図ったのです。

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東日本大震災 No.1

長年の海外での取り組みによりお陰様でMOBBY’Sのブランドは海外でも業界内では少しは知られた存在になったと思います。“日本品質”の期待を背負って今後も頑張りたいと思っています。

東日本大震災”と言えば当社にとっても非常に大きな出来事でした。

2011年3月11日、マグニチュード9の大地震震源地は宮城県沖、つまり弊社の本社・工場のある石巻市の沖合いでした。死者・行方不明者の総数が約22,000人、そのうち人口15万人の小さな石巻市が最大の被災地となり、約4,000人の方々が亡くなったり行方不明になったのでした。あのときのことは正直、今でも思い出したくないし、あれほど好きだった地元の海にもなかなか近寄れないでいます。

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